礼拝説教要約「仕えて生きる」(2024/11/3)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 10章35節~45節 詩編 84章11節~13節
主イエスは十字架のあがないを成し遂げるためにエルサレムに向かって旅をしていた。その途中、弟子たちに主に従う生き方を教えた。
この時、ゼベダイの子ヤコブとヨセフは、主が栄光を受ける時、右と左に座ることを願った。主が二人に「この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」と尋ねると、彼らは「できます」と答えた。主が語った杯とは十字架の杯であった。しかし二人はそれを王や高官が飲む喜びの杯と誤解した。それは他の弟子たちも同様であった。
そんな弟子たちに主イエスは告げる。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕えるものになり、あなたがたの中で頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」。
明治時代以降、立身出世的な教育の風潮の中、キリスト教学校で学ぶ者は社会事業や宗教等を志した。上を目指す志ではなく、「底辺に向かう志」である。
札幌農学校の創設者クラーク博士は「少年よ、大志をいだけ」と言った。しかしこの言葉の真意は「キリストにあって」と続く。これも「底辺に向かう志」である。なぜならキリストは低く降り、人となって「仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げる」十字架の道を歩まれたからである。 私たちは主の十字架の愛を携えて、主と共に仕える道を歩むように招かれている。この後、ヤコブとヨハネも使徒としてその生涯を送った。ヤコブは使徒たちの中で一番はやく殉教の死を遂げ、ヨハネは長く生き、迫害の激しい中で福音宣教に仕えた。二人とも神と人に仕え、主イエスの飲む杯を誠実に飲み、僕として歩んだのである。私たちも礼拝から遣わされ、主の十字架の愛を携えて、仕える者として歩もう。