主のもとにいこう(2020/07/26 高橋真之伝道師)*説教音声あり

「主のもとにいこう」

詩編23章1~6節/マタイによる福音書11章25~30節

高橋真之伝道師

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イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」とお語りになりました。こう語られているように、イエス様のところにこそ、本当の安らぎというものがあるのです。

しかし、続くイエス様の「わたしの軛を負いなさい」という言葉は私達をたじろがせます。軛とは、家畜の首に嵌めてコントロールする器具のこと。ですから、一般的に軛というのは不自由や支配を象徴するもの、休息や安らぎとは反対のもの。しかし、イエス様は休みを得るために、「私の軛を負いなさい」と言われるのです。なぜでしょうか?

それは、私達にとってその軛とは重荷ではないからです。軛とは、二匹の家畜を横に並べて繋げる働きも持っています。そして繋がられる家畜は、一匹がベテランの家畜、もう一匹は新米の家畜。そして新米家畜は上手く動けませんので、家畜の負担はほとんどがベテランの家畜に架かってきます。私たちがイエス様の軛に繋がれる というのもこれと同じことです。イエス様は、私たちに新たな重荷を背負わせようとしているのではなくて、私達と同じ軛に繋がれることを通して、私たちの重荷を背負い、担おうとしてくださっているのです。イエス様は、「私の軛は負いやすい」と言われているのは、そういうことなのです。  

そしてもう一つ大切なことは、私たちの重荷を担うイエス様が「柔和で謙遜」な方であるということです。この言葉には、自分を最も低くして、重荷を担う主の御姿が言い表されています。事実、主は私たちの最も重い重荷である罪さえ担ってくださいました。このイエス様だからこそ、私たちは安心して自分の重荷をお任せできるのです。

「誰でも私のもとに来なさい。」イエス様はそう宣言してくださっています。「誰でも」です。ですから遠慮は無用です。私達も感謝と喜びを持って主に重荷を担っていただこうではありませんか。

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