「神の御業が現れるために」(2018/10/21 熊江秀一牧師)

「神の御業が現れるために」詩編46編2節~12節/ヨハネによる福音書9章1節~7節

熊江 秀一牧師

仮庵の祭の時、弟子たちは生まれつき目の見えない人を見て、この人の障害は誰の責任かと主イエスに尋ねた。ユダヤ社会では、障害は罪を犯した報いだと理解された。「因果応報」の考え方である。これは現代日本においても根強く残っている考え方だ。

 

ここで本人の責任とか、両親の責任と弟子たちが議論をしても、この人にはなんの慰めにもならない。むしろ、その人の現実に追い打ちをかけることになる。しかし、私たちは弟子たちとは違うとは言い切れない。私たちも、障害を「不幸なことだ」と思うとしたら、弟子たちと変わらないのである。

 

それに対して主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と、因果応報を否定する。むしろ「神の御業がこの人に現れるため」と宣言する。その人の障害を通して、神の御業が明らかにされるのである。私はそのことを、車いすの姉妹を通して教えられた。この姉妹は、感謝と与えられた声を用いての証しにあふれていた。そのような神の御業を教会の中で見ることができる。しかし神の御業は、弱さを与えられた私たちを通しても現される。この宣言は、すべての人に与えられている。

 

この人は主に、つばでこねた土を目に塗っていただき、シロアムの池に行って洗った。すると目が見えるようになった。このシロアムの池は教会をあらわし、洗いの姿は洗礼を思わされる。この人は、主の言葉に従って教会に連なり、洗礼を受けて新しい存在となったのである。主イエスは「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と告げる。「私たち」教会によって「世の光」、つまり主の救いは宣べ伝えられる。「神の業が現れるために」私たちが用いられる。