礼拝説教要約「主を迎える時」(2024/11/24)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 11章1節~11節   詩編 118章1節~29節

   

 アドベントを前にした終末主日に、主のエルサレム入城が与えられた。

 この時、人々は主イエスを王として迎えた。上着や葉の付いた枝を道に敷いて主を迎えた姿は、王を迎える時の姿である。

主イエスを我が王として迎えることは大切である。私たちは、我が王は自分自身だと思い込んでいる。その時、私たちはどうだったか。力やお金、神ならぬものに頼り、罪にしばられた状態にあった。そんな私たちを救い出すために主が来て下さった。この主を我が王として迎えよう。

 この時、主は子ろばに乗って入城された。普通、王は馬に乗って入城する。しかし主は馬に乗った力で支配する王としてではなく、ろばに乗った柔和な王として入城された。

 主は子ろばのような、小さく、弱い私たちをも「主がお入り用なのです」と用いて下さる。その時、私たちはありのままの姿で主をお乗せすればよい。その時、私たちも主の栄光の中を進む。私たちは主をお乗せする子ろばである。

 主が子ろばに乗って入城された時、人々は詩編118編25~26節を歌って迎えた。「どうか主よ、救ってください」(ホサナ)、「我らの父ダビデの来るべき国に祝福があるように」。人々は主を迎えた喜びに満ち、神の救いを求めて、祭司が歌う歌を、自分たちの歌として歌った。

 しかしこの時、人々が歌った詩編118編の中には、主がエルサレムに来られた意味が込められていた。「家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった」。主イエスは家を捨てる者に捨てられた石、隅の親石となる。それが十字架の出来事である。

主は柔和な王となり、隅の親石となって十字架の救いを成し遂げるためにエルサレムに入城された。この「私たちの目には驚くべき」「主の業」をほめたたえ、主を迎えて歩もう。



  



 

  

 

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