「神の民として」(2018/09/30 熊江秀一牧師)

「神の民として」詩篇34編2節~11節/ペトロの手紙(一)2章1節~10節

熊江 秀一牧師

ペトロは神の民を「神のものとなった民」と呼んだ。私たちは神のもの、神に属する者である。しかし私たちは「かつて神の民でなかった」。「暗闇の中」にいた。そんな私たちが「驚くべき光の中へと招き入れられた」。神の憐れみを受け、主イエスによって神の民とされたのである。

 

ペトロは主イエスを「生きた石」と呼ぶ。それは旧約の時代に約束されていた。主イエスは家を建てる者が役に立たないと捨ててしまった石のように、人々から捨てられ、十字架で殺された。しかし神は主を復活させ、尊い、救いの「かなめ石」として置かれた。この石は「隅の親石」と同時に完成させる石でもある。十字架の主こそ私たちの救いの石である。

 

しかしこの石は、信じない者にとっては「つまづきの石」となる。この言葉にはペトロ自身の懺悔も含まれる。彼も主の十字架につまづいた。しかしそんなペトロを、主は決して見捨てなかった。主の愛の中で彼は使徒とされた。そのペトロが語る。「あなたがたは主が恵み深い方だということを味わった。この主のもとに来なさい」。

 

詩篇34編も「味わい、見よ、主の恵み深さを」と歌う。私たちは何度も主の恵みを味わい、主のもとに来続ける。そしてペトロは私たちに「生きた石」として用いられるように勧める。それは私たちが聖なる祭司として生きることだと言う。これは万人祭司の根拠である。祭司の務めは3つ。礼拝、執り成し、神の御業を知らせるーーである。私たちを闇から光へと招き入れた生きた石である主を礼拝し、その御業を伝え、主の愛の中で執り成しの祈りを捧げる。私たちが神の民として選ばれている恵みを感謝し、主のからだなる教会をともに形作ろう。