礼拝説教要約「結婚の意味」(2024/9/22)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 10章1節~12節   創世記 2章18節~25節

   

 主イエスのエルサレムへの旅が始まる。それは十字架に向かう旅である。この旅の中、主は受難予告を挟んで四つの教えを語る。まず「結婚と離縁」である。

 ファリサイ派の人々は主に離縁について尋ねた。主を試すためである。

 ユダヤ社会では夫は妻に「離縁状を書いて」離縁することができた。しかし夫の身勝手な解釈で離縁となることも多かった。それは御言葉を自分勝手に利用する罪の姿である。その姿は今も問われる。

 この問答があったのはヘロデ・アンティパス王の宮殿の近くである。ヘロデ王は自分の兄弟の妻を奪って結婚し、それを非難したバプテスマのヨハネを殺した。ここにファリサイ派の人々の狙いがあった。主が離縁を否定すれば、ヘロデへの非難として主を訴えることができる。彼らは御言葉を利用して、主を陥れようとした。

 主はそれをご存じであった。その上で「かたくなな」私たちに結婚の意味を語る。

 主は創造の恵みに目を向けさせる。神は天地創造の最後に人を造られた。しかも神は人をご自分のかたちに創造し、男と女に造られた。聖書協会共同訳聖書ではこれが一文で訳された。神のかたちに造られた私たちは、その神と向き合う姿を男女の中で映し出すのである。男女は互いに助け合って神の栄光を現す。それが男と女を創造した神の御心である。そして神の前に「二人は一体となり」家庭を築く。これが結婚の秘儀である。

人類が創造されて以来のこの神の恵みのご意志を忘れてはならない。仮に離婚になった時も、私たちは神の前に立つことを忘れてはならない。 かたくなな私たちは、夫婦も家族も罪にあふれ、愛乏しい。しかしその中心に主の十字架が立っている。主の十字架の赦しと執り成しの中で、神の前に共に生きる歩みを続けよう。



  



 

  

 

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