礼拝説教要約「主イエスの正体」(2024/7/28)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 9章2節~13節 マラキ書 3章20節~24節
ペトロの信仰告白と主の死と復活の予告から6日後、主イエスはペトロ、ヨハネ、ヤコブだけを連れて山に登った。すると、彼らの目の前で主の姿が変わり、衣が白く輝いた。主の神の子としての本質が現れ、その栄光が輝き出したのである。この時は夜であった。主の栄光は闇の中で輝いている。
しかもこの時、彼らは「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合って」いるのを見た。旧約聖書に込められた神の計画が主イエスに引き継がれ、実現するのである。
しかしペトロはいさみ足をしてしまう。興奮のあまり、記念の「幕屋」を建てることを進言する。
ペトロは、主をモーセやエリヤと同等に考えてしまった。さらに主の栄光を、この世的な栄光のように考え、目に見える形で残そうとしてしまった。
主の栄光は、苦難の僕として十字架を歩む栄光であった。「人の子は・・多くの苦しみを受け、蔑まれる」。ルカの並行記事によれば、主とモーセとエリヤは「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた」。主の十字架と復活に主の栄光がある。
その時、雲の中から神の声が聞こえた。「これは私の愛する子。これに聞け」。私たちは栄光の神の子イエスに聞き従うことが求められる。
しかし彼らはこの出来事を理解できず、メシア到来の前のエリヤに対する疑問となる。すると主は「エリヤはすでに来た。人々は(彼を)好きなようにあしらった」と告げる。このエリヤとは洗礼者ヨハネである。ヨハネは自らの受難を通して、メシアを指し示したと宣言する。
弟子たちがそのことを正しく理解できるのは後である。しかしこの経験を通して、主の受難が、栄光の道であることを知った。主の受難に、主の栄光があることを心に刻み歩もう。