礼拝説教要約「何を見るか」(2024/7/7)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 8章22節~26節 イザヤ書 35章1節~6節
ベトサイダで、主が盲人をいやされたという物語が与えられた。この箇所はいやしが段階的に行われたという特徴を持っている。
これまで多くの奇跡を通して、イエスの神の子としての力が明らかになった。しかし同時に弟子たちの無理解も明らかになった。この弟子たちの目を主が少しずつ開き、見えるようにして下さることをこの出来事は告げる。それは次のペトロの信仰告白とつながってゆく。
この時、ガリラヤ湖を横断し、ベトサイダに到着した主イエスのもとに、人々は盲人を連れてきて、触れて下さいと願った。その時、主は盲人の手を取って、村の外に連れ出した。人々の奇跡に対する無理解のためであるが、盲人が主にのみ向かい合うためでもある。主は盲人と向き合い目に唾をつけ、両手を置いて「何か見えるか」と尋ねた。すると全く見えなかった目がぼんやりと開かれ「木のように」人が見えた。さらに主がもう一度、手を置くと「すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった」。
この時、盲人が見た人は主御自身だったと思われる。他の聖書の訳も参考にすると、主の2度のいやしの中、盲人は顔を上げて主を見つめ、さらに主をじっと見つめているうちに、はっきりと見えるようになったのである。
私たちが見るべきお方は主イエスである。私たちは主を見ることによって「人が見え」るようになり、「はっきり見えるように」なる。
ここで盲人が見た主イエスのお姿「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」は、主イエスの十字架の歩みをも示している。主に目を開かれた盲人は、ぼんやりと主の十字架のお姿を見た。その十字架の主のお姿ははっきり見えるようになる。それはこのマルコ福音書の後半へとつながってゆく。