礼拝説教要約「主に養われる世界」(2024/6/30)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(聖書協会共同訳)
  
  マルコによる福音書 8章1節~21節   エレミヤ書 5章20節~25節

   

 主イエスが7つのパンと少しの小魚で4千人を満腹させたという奇跡物語が与えられた。6章には5つのパンと2匹の魚で主が5千人の群衆を満腹させたという物語があった。なぜマルコは同じような物語を記したのか。私たちがにぶいからである。私たちは何度も聞き、主の恵みに立ち返らないとすぐに忘れてしまう。もう一つの理由は、奇跡の対象の違いである。5千人のパンの奇跡はユダヤ人。4千人のパンの奇跡は異邦人が対象である。 パンの奇跡は聖餐式の原型となった。「わたしは命のパンである」と宣言された主が、十字架の命によって養うのはユダヤ人だけでなく異邦人もすべての民である。

 この時、主は弟子を呼び集め「群衆がかわいそうだ」と言った。この言葉は痛みを伴う神の愛を示す。空腹の異邦人は、罪に覆われ、救いに飢え乾く世界の現実である。この世界の救いのために主はご自身をささげて彼らを満腹させた。満腹は身も心も満たされる状態である。この時、残ったパン屑は7つの籠でいっぱいになった。全世界のすべての人がこの恵みで満たされるのである。

 そして主はこの時、弟子たちを用いられた。主は弟子たちに同じ思いを共有させ、弟子の手によって群衆に恵みを届けさせた。

しかし私たちは、この主の招きに応えることが乏しい。

パンの奇跡の後、弟子たちはパンをもって来るのを忘れ、いざこざが起こる。そんな弟子たちに主はパン種に注意をすることを語り、再度5千人と4千人の奇跡の時にあふれた恵みに目を向けさせる。にぶい私たちは主によって何度も恵みの原点に立ち返らせていただく。

世界のすべての人は命のパンである主の命に養われる。この恵みがすべての人に届けられるように、十字架の主に仕えよう。



  



 

  

 

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