礼拝説教要約「主イエスのため息」(2024/6/23)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所(聖書協会共同訳)
マルコによる福音書 7章31節~37節 詩編 51章3節~19節
主イエスはティルスからガリラヤ湖に戻る時、シドン、デカポリス地方を通り遠回りをされた。
異邦人の町や村を通るルートである。主イエスは異邦人の救いのために遠回りをなさる。デカポリス地方は、主に汚れた霊を追い出していただいたゲラサの人によって主の御業が言い広められていた(5:20)。人々は喜んで主を迎え入れただろう。その中で新たな出会いが起こる。主の御業を聞いた人々によって連れて来られた「耳が聞こえず口の利けない人」との出会いである。
主は指を彼の両耳に差し入れ、唾をつけて彼の舌に触れた。そして「天を仰いで呻き」「エッファタ」(開け)と宣言された。「呻き」は口語訳聖書では「ため息」であった。するとたちまち「耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと」話せるようになった。
この人は耳が聞こえず、口が利けなかった。この姿は、コミュニケーションが崩壊している私たちの現実である。人の話を聞けず、相手を生かす言葉ではなく、悪口や争いの言葉を口にし、神に文句ばかりを言うのである。主イエスはそのような私たち人間の現実に呻き、ため息をつかれた。そして主は宣言された。「エッファタ」(開け)。
この人はいやされて、何を話し出したか。それは証しと賛美であった。主はこの出来事を信仰ぬきに受け止めないように「口止め」したが、人々は主の御業を語らずにはいられなかった。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と主を証し、賛美した。ここに私たちのコミュニケーションの原点がある。
主は私たちの現実を受け止め、愛ゆえに呻き、ため息をつかれた。そして私たちの耳を開き、この口を証しと賛美であふれさせて下さる。私たちもこの人と共に主を証しし、ほめたたえよう。