礼拝説教要約「湖上を歩く主」(2024/4/28)を掲載しました

担当   熊江秀一牧師

■聖書箇所(新共同訳)
  
  マルコによる福音書 6章45節~56節   出エジプト記 3章13節~15節

   

5千人の食事の後、主イエスは弟子たちだけを舟に乗せ、湖の向こう岸に行かせた。 しかし湖上は逆風となり、弟子は暗闇の中、試練に直面する。この船旅は主の命令による「強いて」出発した旅だった。そのただ中で試練に直面した。この姿は教会や私たちの姿である。教会の旅も、信仰の人生も、主に従って旅をするただ中で、誘惑の嵐、試練の嵐という逆風が吹き荒れることがある。その時、私たちの信仰が問われる。

この時、主は山で祈っておられた。そしてすべてを見、自ら降って来て下さった。「そばを通り過ぎようとされた」は、主を正面から見ることができない弟子たちに、主自らがご自分をお示しになる姿である。

しかし弟子たちはそのことが理解できなかった。湖上を歩く主を見て「幽霊だと思い、大声で叫んだ」。主は試練の時、私たちのもとに来て下さる。しかし私たちはそれに気づかず、悲鳴をあげてしまう。

しかしそれでも主は弟子たちを見捨てない。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」とご自分をお示しになる 。「安心しなさい」は平安を与え、「しっかりするのだ」(口語訳)と信仰を奮い立たせる言葉である。「わたしだ」(エゴー・エイミ)は旧約以来、神の名を意味する。そして「イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり」嵐はおさまった

主を見失い、恐れと不安にあった弟子たちは、神の力を示され、主を舟にお迎えした時、嵐はおさまり旅を続けることができた。主は、私たちのことをいつも見、祈り、降って来て、御言葉によって主が今も生きて働く神であることをお示しになる。主をお迎えした舟は、嵐に見舞われても平安の内に旅を続けることができる。 主の御言葉をいただき、主と共に歩んで行こう。



 



  



 

  

 

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