礼拝説教要約「イエス様の水を運ぶ」(2024/1/21)を掲載しました

         

担当   疋田義也牧師 (本庄教会)地区講壇交換礼拝

■聖書箇所(新共同訳)
  
  ヨハネによる福音書 2章1節~12節   ゼカリヤ書 8章9節~13節

■説教要約

 

神は「あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが、今やわたしが救い出すので、あなたたちは祝福となる。恐れてはならない。勇気を出すがよい。」とバビロン捕囚の苦しみにあった神の民に、救いをお語りになった。罪の「呪い」は、人を祝福して命を与える神様を見失わせる。そして、自分の存在価値や、その創り主である神をも軽んじてしまうのである。その罪人にも、神は「わたしが救い出す…勇気を出しなさい」と語られる。この「勇気をだす」(ヘブライ語では「手を力づける」)は、人の背後に神の「力強い御手」の支えがあることを伝えている。しかし、この神の御手は、他者を無理やり強いる「強引な手」ではない。人をそのままの姿で受け入れ、包み、癒す、愛の御手である。

主イエスはカナの地で、水瓶に満たされた水をぶどう酒に変えられた。イエス様の奇跡は、ヨハネ福音書では“しるし”と呼ばれている。御子イエス・キリストの命に代えてまでも、私たちの罪が赦されて、神を知って信仰の祝福の中を生きるようにと願う、神の愛の真理を示す“しるし”なのである。この“しるし(奇跡)”の背後には、水瓶を満たした召し使いと、呼びかけた母マリアの勧めがあった。約700リットルもの水を井戸から汲み、水瓶まで繰り返し運ぶ途方もない働きである。この召し使いとマリアは今日の教会を現わす。教会の働きは、主の十字架の贖いの血による愛を示す、“生きた水”である主の御言葉に謙虚に聴き従う歩みである。

私自身の歩みを振り返っても、紆余曲折の中で、絶えず神が私を見放さず、守り抱かれていた。この愛の御手が大宮教会を通じて私が受け取った信仰の恵みであった。教会に現わされる主の御手の中で、嘆きに満ちた、無味な私たちの水瓶の水が、最良の香りと味わいのある最高のぶどう酒に変えられるのである。



 



 



  



 

  

 

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