礼拝説教要約「主イエスの家族」(2023/11/5)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
マルコによる福音書 3章31節~35節 詩編 135章1節~7節
■説教要約
「イエスの母と兄弟たちが」主を訪ねて来た。「あの男は気が変になっている」と言われ「取り押さえに来た」(前回21節)のである。
それに対して主イエスは「わたしの母、わたしの兄弟たちとはだれか」と答えた。この言葉は悲しみにあふれた言葉である。家族の中にさえ潜む罪の現実への悲しみである。まず主に対する無理解があった。家族は神が与えた最も近い隣人である。しかし社会評価によって理解し合えない現実がある。
また民衆に対する無理解があった。主の家族は民衆の苦しみも、彼らへの主の救いも理解できず、自分の家のことしか見えなかった。彼らは「外に立ち」中に入らなかった。そこに主の悲しみがあった。私たち一人一人も問われている。
そんな私たちに主イエスは神の家族の姿を示す。主は「周りに座っている人々を見回して」「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と宣言する。この人々は主を囲んで、御言葉を聞いていた。これは主によって結ばれた神の家族である。
主は私たちの罪の贖いのために十字架にかかり、肉を裂かれ、血を流された。この主の肉と血を受けた私たちは、主にある兄弟姉妹、霊的な家族である。この恵みに生きる者が「神の御心を行う人」である。
神の家族として生きる時、肉の家族も強められ、深められる。私たちは「外に立ち」恵みを拒絶するのでなく、扉を開け、神の家族の恵みに生きたい。
神の家族の恵みは、その家の一人の信仰者から始まる。神はその一人を家族の祝福の基として立てられた。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(使徒16:31)。一人の信仰者がいれば、その家庭はクリスチャンホームである。
それぞれの家族が神の家族の恵みであふれるように祈ろう。