礼拝説教要約「安息日の主」(2023/10/1)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
マルコによる福音書 2章23節~3章6節 サムエル記上 21章2~7節
■説教要約
安息日は神の創造時の安息に由来する。仕事を離れ、神と共に憩い、神の祝福に身を置いて、礼拝を捧げる時である。しかしこの時代、安息日の禁止規定が強調された。それを重んじるファリサイ派の人々にとって、主イエスや弟子たちは許しがたかった。
ファリサイ派の人々は、安息日に麦畑で麦の穂を摘み食べた主の弟子たちを非難した。それは収穫禁止違反、脱穀禁止違反、ふるいかけ禁止違反、食事の用意禁止違反等になる。
この時、主は「人の子は安息日の主である」と宣言する。ダビデが掟を越えて供えのパンを食べることができたように、人の子イエスは安息日の掟を越えると語った。私たちはもはや掟に縛られることはない。このお方に目を向け、安息日の喜びと憩いに生きるのである。
さらに主は安息日の生き方を教えた。ある安息日、会堂に片手のなえた人がいた。ファリサイ派の人々は、主がこの人をいやしたならば、安息日の禁止違反で訴えようと考えた。
主はこの人に「真ん中に立ちなさい」と言い、人々の目を彼に向けさせた。そして「安息日に律法で許されている」ことは何かと問いかけた。主は「手を伸ばしなさい」と言って、この人をいやし、新しい生へ招かれた。安息日は愛に生き、善を行い、命を救う時である。私たちも安息日からこの人のように、主にいやされて新しく歩み出す。
しかしこの時、同時に主を殺すという人間の罪の計画が始まった。主はそのことをご存じであった。主は私たちを新しい生へと招くために、十字架の道を歩まれた。
私たちは主の復活した日曜日を安息日として祝う。主は十字架と復活によってこの日を定め、神の前で憩い、新しい者とされ、愛の歩みを始める日として下さった。この恵みに生きよう。