礼拝説教要約「十字架の主」(2023/3/19)を掲載しました
担当 熊江秀一牧師
■聖書箇所
ヨハネによる福音書 19章16節b~22節 イザヤ書 55章8~11節
■説教要約
主の十字架の場面が与えられた。2回に分けて読み進んでゆく。総督ピラトから主イエスを引き取り、十字架につけた「彼ら」とは、祭司長たち、ユダヤ人であった。神の民によって主イエスは十字架につけられた。
この時、主イエスは物のようにやり取りされて殺された。人を物のように扱い、命を軽んじるという罪を、人間は歴史の中で繰り返してきた。その罪の極みが神の子を殺すという出来事である。その私たちの罪を主は担い、十字架の道を歩まれた。
十字架の場面には二つの主語が登場する。一つは十字架につけた「彼ら」。もう一つは「主イエス」である。「イエスは自ら十字架を背負い」歩まれた。
この十字架は人間の罪の重荷であった。この時、主イエスは無言で私たちの罪を担われた。イザヤ書53章の苦難の僕として。そしてそれはヨハネのテーマ「世の罪を取り除く神の小羊」である主イエスの姿である。
主イエスを真中にして両側に二人の罪人が十字架につけられた。私たちも十字架につけられるべき罪人であることを忘れてはならない。そんな私たちのために主は天の御国を開いて下さった。
淡々と書かれたヨハネ福音書の主の十字架の中で、ページを割いて書かれたことがある。それは十字架の主イエスの罪状書きをめぐるやり取りである。
この時、ピラトは「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いた罪状書きを直さなかった。それによって十字架につけられたナザレのイエスがユダヤ人の王、全世界の救い主であることが明らかにされた。しかも当時の全世界の言語とも言える3つの言語によって全世界の民に向かってこのことが宣言されたのである。
私たち人間の思いを超えて、神の救いのご計画は実現する(イザヤ55章)。