罪に死に、キリストに生きる(2021/4/18) 熊江秀一牧師
「罪に死に、キリストに生きる」。この主題によるパウロの変奏曲とも呼べる御言葉が与えられた。
パウロを非難する者たちは「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれた」(5:20)というパウロの言葉の上げ足を取り、恵みが増すように進んで罪を犯そうと語った。
それに対してパウロは「決してそうではない」と強く否定する。そして「あなたがたは知らないのですか」と呼びかけて、洗礼による恵みの原点に目を向けさせる。
私たちキリスト者は洗礼(原意・浸されること)によって、罪に染まった古い私が、水に沈められて死んで、新しい命として生まれた。洗礼によって私たちはキリストと結ばれ、キリストと一体になり、キリストと共に罪に死んで、キリストと共に復活した。これは理屈ではない。聖霊によって確かに実現している。洗礼の時に、水に浸された私たちは、同時にキリストの恵みに浸される。私たちは罪に死に、キリストに結ばれて、神の愛と恵みに浸されて、主の命の中で生きている。
そしてパウロは「罪に死に、キリストに生きる」私たちの新しい生き方を宣言する。
自分の体を「罪に支配させて」生きるのではなくて、キリストに支配されて(あなたの王として)「神に献げて」生きよと命じる。エレミヤも歌う。「祝福されよ、主に信頼する人は」彼は「実を結ぶことをやめない」。
私たちはこの「五体を不義のための道具」とするのではなく、「義のための道具として神に献げて」歩みたい。「罪はもはや支配することはない」。私たちは今や「恵みの下にいる」。
「罪に死に、キリストに生きる」恵みの中で、自分を神の義の道具として捧げ、神の愛と信仰の道を歩んでいこう。