受難のキリスト(2021/3/21) 熊江秀一牧師
「受難のキリスト」
イザヤ書53章6~10節/マタイによる福音書26章57~65節
熊江秀一牧師
主の裁判の箇所が与えられた。それは不当であった。まず死刑ありきで、弁護人もいなかった。この人々の中に私たちの姿もある。私たちは神の御子さえも十字架にかけて殺す罪人である。
裁判の時、自分の罪に気づき、泣いた人がいた。ペトロであった。彼は大祭司の官邸に忍び込み、裁判を見届けていた。その時、主と一緒にいたことを指摘される。彼は三度「そんな人は知らない」と否定する。その時、鶏が鳴いた。ペトロは「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」との主の言葉を思い出し泣いた。
ペトロは主と共にいることを否定した。マタイ福音書では「主が共にいる」ことが福音として告げられる。しかしペトロはその恵みを自ら断ち切った。ペトロの涙は私たちの涙でもある。
この時、主は沈黙しておられた。主はこの不当な裁判に対して、神の怒りを下すこともできた。しかし黙って、裁かれた。
主は人々の悪意に満ちた顔も、私たちの罪の姿もご存じであった。しかし主は神の小羊として私たちの罪を背負い、神の裁きを受けた。私たちを執り成して、御自分の命を捧げて下さった。
主はペトロのことも見ておられた。「わたしはあなたのために信仰がなくならないように祈った」(ルカ22:31)。ペトロの涙は自分の弱さと罪を嘆き悲しむ涙であると同時に、主の愛のまなざしの中で流した悔い改めの涙である。
ペトロの名が登場するのはマタイではこれで終わりである。ペトロがこの後、どうなったか明らかだからである。
そして今日の箇所は、私たちに問いかける。「(イエスを)神の子、メシアと信じるのか」。大祭司の問いは、実は、逆に大祭司をはじめ、私たちに問うている主の問いかけである。