神の民とは何か(2021/1/10) 熊江秀一牧師
「神の民とは何か」
詩編51章3~17節/ローマの信徒への手紙3章1~8節
熊江秀一牧師
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ユダヤ人の罪を指摘してきたパウロは一転し、その優れた点を語り始める。「まず、彼らは神の言葉がゆだねられた」。この言葉は神の民である私たちキリスト者にも宣言される。私たちは御言葉が委ねられ、証しする使命が神から与えられている。
しかしこう思ってしまう。“私はそんな器ではない”。私たちは神の使命に直面する時、たじろぐ。それはモーセもイザヤもエレミヤも同様であった。しかし神は私たちの罪や弱さを越えて御言葉をゆだね、使命を与える。「人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方である」とパウロは断言する。私たちの罪や弱さによって、神の真実が無にされることはない。むしろその中で神の真実が明らかにされる。
新潟時代、豪雪地で開拓伝道に仕えた先輩牧師は、「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ福音書3章8節)という御言葉を胸に伝道者の人生を歩み抜いた。主は私たちのような小さく弱い器を用いて、神の栄光を現わされる。
この神の真実は主イエスとして実現した。主は私たちの罪や弱さを越えて、神の栄光を現して下さった。私たちは主イエスという神の真実の中で、信仰に生きる。
パウロはその思いと共に詩編の51編6節を引用する。罪を犯したダビデはただ神の真実に寄りすがり、悔い改めた。「神よ、わたしを憐れんで下さい」「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい」「わたしはあなたの道を教えます」。
自分の罪を知り、悔い改め、ひたすら神の真実に生きたダビデは私たちの信仰の生き様を示す。
変わることのない主の真実の中、御言葉をゆだねられた者として、主の使命と選びに応えよう。