驚くべき神の恵みと招き(2019/09/29 熊江秀一牧師)※説教音声あり
「驚くべき神の恵みと招き」イザヤ書55章1節~7節/マタイによる福音書20章1節~16節
熊江 秀一牧師
「ぶどう園と労働者」のたとえが与えられた。1デナリオンは一日分の賃金、人が生きるために必要な金額である。主人はその約束を結ぶために自ら労働者のもとに出向く。しかも何度も出向く。この主人を通して、何度も私たちのもとに来て、天の国に招く神の驚くべき恵みと招きを知らされる。
私たちも教会という神のぶどう園に招かれた。その招かれた時は違う。しかしみんな神の恵みによって招かれ、神のぶどう園で共に働くように招かれた者である。
主人は夕方になって労働者に一日の賃金を支払う。その時、すべての者が同じ1デナリオンであった。すると最初に雇われた者たちから不平が出る。ある意味で当然である。働きに応じて報酬が与えられることは社会の常識である。しかし神のぶどう園、教会はそれを越えたところにある。働きではなく、ただ神の恵みを喜ぶ群れが教会である。
「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。働きを第一とする私たちに主イエスはこのたとえの前後で問いかける。そんな私たちが陥る姿を「ねたみ」(原意:目が悪い)と言う。心の目が悪くなり、神の愛と恵みが見えなくなるのである。そしてねたみは主イエスを十字架にかけることになる(28:18)。
しかし私たちはただ神の恵みによって、神のぶどう園に招き入れられた。そこでは招きの時や働きに関係なく、だれもが同じ永遠の命の恵みが約束される。
ルターは主と出会った後の人生を「残りの人生」と言った。私たちは残りの人生を、万人祭司として(礼拝、執り成し、御言葉)、神の栄光を現わす生ける神殿(礼拝招詞)として生きるように招かれた。大宮教会という神のぶどう園で共に仕えよう。
メッセージを聴き大きな恵みをいただきました。
神の葡萄園の一人の労働者として、万人祭司の一人として、残りの人生を全うしたいと願います。主の御名によって祈ります。アーメン